ある朝、スタッフから一本の連絡が入る。「候補者の顔写真に、言ってもいない発言を合成した投稿が拡散しています」。慌ててSNSを確認すると、すでに数百件の引用や引用リポストがつき、コメント欄には事実確認もされていない中傷が並んでいる――。選挙戦の現場では、こうした事態が突然、しかも週末や早朝など対応しづらい時間帯に発生することが少なくありません。
候補者本人やスタッフが誹謗中傷・デマの標的になったとき、最初の数時間の動き方次第で、その後の拡散の勢いや陣営の負担は大きく変わってきます。本記事では、2024年の兵庫県知事選や東京都知事選をめぐる問題を経て2026年に成立した法改正の内容も踏まえながら、候補者やその陣営が取るべき初動対応の考え方を整理します。
なぜ今、誹謗中傷・デマ対策が重要なのか
選挙とSNSの関係が大きく注目されるようになったきっかけの一つが、2024年11月の兵庫県知事選です。この選挙では、候補者や関係者に対する事実に基づかない情報がSNS上で急速に拡散し、当時の丸尾牧県議や、その後お亡くなりになった竹内英明元県議への攻撃的な投稿が相次いだことが大きく報じられました。同年に行われた東京都知事選でも、同様にSNS上のデマや誹謗中傷が選挙戦を左右しかねないという課題が指摘されています。
これらの出来事を受けて、SNS上での偽情報や誹謗中傷が選挙の公正性そのものを損なう恐れがあるという認識が、立法の現場でも共有されるようになりました。その結果として動いたのが、2026年の公職選挙法および情報流通プラットフォーム対処法(情プラ法)の改正です。候補者側としては、こうした社会的な背景を理解しておくことで、なぜ今このテーマが重要視されているのかを陣営全体で共有しやすくなります。
選挙カーでの街頭活動やポスティングと違い、SNS上の投稿は一度拡散すると陣営側の意図とは関係なく、地域や時間を超えて広がっていきます。街頭では聞き手の反応をその場で見ながら話し方を調整できますが、SNSでは発信者の手を離れた瞬間から、切り取られた形で伝わってしまうことも珍しくありません。候補者本人が自身の名前で検索すると想定外の投稿が見つかることもあり、選挙活動の一部として、SNS上の状況を定期的に確認する体制そのものが必要になってきています。
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2026年の法改正で変わること
2026年7月13日、改正公職選挙法と改正情プラ法が成立しました。施行は2027年3月1日で、実際の運用は2027年春に予定されている統一地方選挙から適用される見通しです。候補者としては「今すぐ何かが変わる」わけではありませんが、次の統一地方選までに社会的なルールが整っていく過程にあるという理解が必要です。
今回の改正の大きな柱は、SNS事業者のうち一定規模以上のプラットフォームに対して、偽情報の拡散対策を実施し、その対応状況を年に1回公表することを義務づけた点です。これは「デマだと判断したものを必ず削除しなければならない」という削除義務そのものではなく、事業者側に対策の実施と説明責任を課すものである点は押さえておきたいポイントです。
また、これに先行して2025年4月には情プラ法の一部がすでに施行されており、大規模なプラットフォーム事業者は、利用者からの削除申出に対して原則として1週間程度を目安に判断し、申出者に結果を通知する義務を既に負っています。今回の2026年改正とは別の制度としてすでに動いているという点は、実務上重要な区別です。
選挙に関する改正内容としては、有権者に対して「偽情報の流布などによって選挙の公正を害してはならない」という責務規定(公職選挙法142条の7)が新設されました。ただし、この規定自体には罰則は設けられていません。一方で、以前から存在する虚偽事項の公表罪(235条2項)やなりすまし罪(235条の5)については、SNS上での発信にもこれらの規定が適用されることが法改正を通じて明確化されています。つまり、悪質なデマの発信者を処罰する枠組み自体は、実は以前から存在していたということになります。
とはいえ、どこまでが「表現の自由」の範囲内で、どこからが処罰対象となる虚偽事項の公表やなりすましに当たるのかという具体的な線引きについては、総務省のガイドラインの策定を待つ必要がある部分が多く、2026年7月現在ではまだ確定していない事項が多いのが実情です。陣営としては、今後のガイドラインの動向を注視しつつ、現時点では個別の事案ごとに弁護士に相談する姿勢を基本にするのが現実的でしょう。
誹謗中傷・デマを発見したら最初にすべきこと
問題のある投稿を見つけたとき、多くの人はまず「反論したい」「すぐに消してほしい」という気持ちになります。しかし、初動でもっとも優先すべきなのは反応することではなく、証拠を確実に残すことです。SNSの投稿は削除されたり、アカウントが凍結・削除されたりすると、その時点で証拠が失われてしまう可能性があります。
具体的には、投稿のスクリーンショット(コメント欄やリポスト・引用の状況も含めて)、投稿のURL、投稿日時、投稿者のアカウント名やIDを記録しておくことが基本です。スクリーンショットは画面全体が写るように撮り、可能であればブラウザの印刷機能などでページ全体をPDF化しておくと、後から改変されていないことを示しやすくなります。拡散の勢いが強い場合は、時間を置いて複数回スクリーンショットを取得し、拡散の経過も記録に残しておくと、後の相談の際に状況を説明しやすくなります。
証拠保存は、後述する弁護士への相談やプラットフォームへの削除申出、警察への相談のいずれにおいても土台になる作業です。逆にここを怠ると、いくら深刻な内容であっても対応の選択肢が狭まってしまう恐れがあります。
証拠を記録する担当者は、候補者本人ではなくスタッフが担うのが望ましいでしょう。候補者本人が中傷の内容を一字一句読み込むことは精神的な負担にもなりますし、感情的になった状態で記録を取ると、必要な情報が漏れてしまうこともあります。あらかじめ「誰が記録を取るか」を決めておくだけでも、いざというときの動きがスムーズになります。記録は個人のスマートフォンに保存するだけでなく、陣営内で共有できるフォルダやスプレッドシートにまとめておくと、後日の相談や説明の際に役立ちます。
プラットフォームへの削除申出の一般的な流れ
証拠を保存したうえで、名誉を侵害する投稿や明らかな偽情報については、SNSの運営事業者に対して削除申出を行うのが一般的な流れです。多くのプラットフォームは通報機能やヘルプセンターから、権利侵害情報の削除申請フォームを用意しています。申請の際には、対象となる投稿のURL、侵害されている権利の内容、事実と異なる点の具体的な説明などを記載する必要があります。
先に触れたとおり、2025年4月からは、一定規模以上の大規模プラットフォーム事業者について、利用者からの削除申出に対して原則1週間程度を目安に判断し、その結果を申出者に通知することが情プラ法上の義務となっています。したがって、対象が大規模な事業者であれば、申出後まったく音沙汰がないまま放置される、という状況は制度上は想定されていません。とはいえ、実際の対応スピードや判断の精度は事業者ごとに差があるのが現状で、削除申出をしても「表現の自由」との関係から削除に至らないケースも一定数あります。
削除申出と並行して、投稿そのものへの通報(コミュニティガイドライン違反としての報告)も行っておくと、削除申出とは別の審査ルートで対応される可能性があります。どちらも一度で終わらせず、状況が変わらない場合は追加の情報を添えて再度申出を行うといった粘り強さも必要になることがあります。
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反応すべきケースと反応しない方がよいケース
誹謗中傷やデマを見つけたとき、候補者本人や陣営が公にどう反応するかは、内容や拡散状況によって判断が分かれます。反応すべきケースとしては、明確な事実誤認が広範囲に拡散していて、放置すると有権者の判断を誤らせる恐れがある場合や、政策や経歴について具体的な虚偽情報が流れている場合が挙げられます。このようなケースでは、公式サイトやSNSの公式アカウントを通じて、事実を簡潔かつ冷静に説明する対応が有効です。
一方で、反応しない方がよいケースもあります。個人の人格や外見を揶揄するだけの中傷、拡散範囲がごく限られていて、こちらが反応することでむしろ注目を集めてしまう投稿、明らかに感情的な挑発を狙った投稿などは、正面から反論することでかえって「炎上」を助長してしまう場合があります。特に選挙期間中は時間もスタッフの人手も限られているため、すべての投稿に対応しようとすると本来の選挙活動が手薄になってしまうリスクもあります。
判断の目安としては、「有権者の投票判断に実質的な影響を与えるか」「拡散の勢いがまだ抑えられる段階か」「反応することで事態が沈静化するか、逆に炎上するか」という3点を陣営内で確認する習慣をつけておくとよいでしょう。いずれの場合も、判断に迷うようであれば、候補者本人が単独で即座に反応するのではなく、一度陣営内で立ち止まって検討する時間を確保することが望まれます。
また、反応する場合の伝え方にも注意が必要です。相手の投稿を引用したり名前を挙げて反論したりすると、意図せず相手を「話題の中心」に押し上げてしまうことがあります。事実を説明する際は、誰かを非難する形ではなく、「正しい情報はこちらです」というシンプルな伝え方にとどめるほうが、閲覧者にとっても分かりやすく、余計な対立を招きにくくなります。
弁護士・警察・選挙管理委員会への相談の目安
誹謗中傷やデマへの対応は、陣営だけで判断しきれない場面も多くあります。名誉毀損や侮辱、業務妨害に該当しうる悪質な投稿、発信者が特定できず今後もエスカレートする恐れがある場合には、早い段階で弁護士に相談することをおすすめします。名誉毀損罪や侮辱罪といった刑事上の枠組みも一般的には存在しますが、実際にどの投稿がどの罪に当たりうるか、発信者情報の開示請求をどう進めるかといった判断は、個別の事情によって大きく異なります。具体的な法的評価や対応方針については、必ず弁護士など専門家に確認するようにしてください。
身の安全に関わる内容、たとえば具体的な危害を予告するような投稿や、住所・家族の情報を晒すようなプライバシー侵害がある場合には、弁護士だけでなく警察への相談も並行して検討すべきです。最寄りの警察署の生活安全課やサイバー犯罪相談窓口が対応の入口になることが一般的です。
選挙運動そのものの公正性に関わる疑いがある場合、たとえば組織的な虚偽の政策情報の流布や、候補者になりすました投稿など、選挙の適正な実施に影響しうる事案については、選挙管理委員会にも情報を共有しておくとよいでしょう。選挙管理委員会が直接投稿を削除させる権限を持つわけではありませんが、選挙全体の公正性に関わる事案として記録・相談しておくことには意味があります。
どの窓口に相談すべきか迷う場合は、内容を整理したうえで、まず弁護士に相談してしまうという考え方もあります。弁護士であれば、事案の性質に応じて警察への相談が適切か、選挙管理委員会への情報共有が有効か、あるいは削除請求や発信者情報開示請求といった民事上の手続きに進むべきかを整理して助言してくれます。選挙が近いタイミングでは対応の時間的余裕が限られるため、日頃から相談しやすい弁護士とのつながりを作っておくことも、実務上は有効な備えになります。
陣営内での対応フロー
誹謗中傷やデマへの対応がうまくいかない陣営の多くは、「誰が発見し、誰が判断し、誰が発信するか」という役割分担が曖昧なまま動いてしまうケースです。候補者本人がSNSを頻繁に確認して自分で反応してしまうと、感情的な投稿につながりやすく、後から陣営全体で収拾がつかなくなることもあります。あらかじめ次のような流れを陣営内で共有しておくことをおすすめします。
1. スタッフが誹謗中傷・デマの投稿を発見したら、まずスクリーンショットとURL、投稿日時を記録する
2. 記録した内容を、候補者本人ではなく選対本部長やSNS担当責任者に速やかに共有する
3. 責任者が内容の深刻度を判断し、放置・削除申出・弁護士相談・警察相談のいずれかの方針を決める
4. 対外的な発信が必要と判断された場合は、責任者が文案を作成し、候補者本人が最終確認したうえで公式アカウントから発信する
5. 対応結果(削除申出の受理状況、拡散状況の変化など)を記録し、次回以降の判断材料として蓄積する
このように発見・判断・発信の役割を分けておくことで、候補者本人が一つひとつの投稿に振り回されずに選挙活動そのものに集中できる環境をつくることができます。特に小規模な陣営では、SNS担当を明確に一人決めておくだけでも初動のスピードが大きく変わってきます。
候補者本人のメンタルヘルスへの配慮
誹謗中傷やデマに晒され続けることは、候補者本人にとって精神的な負担が大きいものです。選挙期間中は多忙で気を張っている分、SNS上の攻撃的なコメントを目にしたときのダメージが後からまとめて表面化することも少なくありません。陣営としては、候補者本人が中傷の投稿を直接すべて目にする必要がないよう、SNSのチェックや通報対応をスタッフ側で担う体制を整えることも一つの配慮になります。
また、候補者本人には「反応しない」という判断が、弱さではなく戦略的な選択であることを事前に共有しておくと、いざその場面になったときに落ち着いて対応しやすくなります。深刻な内容が続く場合は、無理に一人で抱え込まず、家族や陣営内の信頼できる人に状況を話す、必要であれば専門的な相談窓口を利用することも検討してください。
選挙期間が終わったあとも、拡散した投稿がそのまま残り続けることで、当選後の活動や次回の選挙にまで影響を及ぼす場合があります。選挙が終わったからといって対応を打ち切るのではなく、必要な削除申出や記録の整理は落選・当選にかかわらず継続して行っておくことをおすすめします。
よくある質問
Q. デマの投稿を見つけたら、すぐに反論するべきですか。
A. すぐに反論する前に、まず証拠を保存することを優先してください。反論するかどうかは、拡散の範囲や有権者の判断への影響度を見極めたうえで、陣営内で判断するのが基本です。感情的な反応は炎上を助長する場合があるため、候補者本人が単独で即答することは避けたほうが安全です。
Q. プラットフォームに削除申出をしても対応してもらえないことはありますか。
A. あります。大規模事業者には削除申出への判断・通知の義務がありますが、これは「必ず削除する」という義務ではなく、表現の自由との関係で削除に至らない投稿も一定数存在します。削除に至らない場合は、弁護士に相談し、発信者情報の開示請求など別の対応を検討することになります。
Q. なりすましアカウントによる発信も処罰の対象になりますか。
A. 公職選挙法のなりすまし罪(235条の5)は、SNS上の発信にも適用されることが今回の法改正で明確化されています。ただし、実際にどのようなケースが該当するかは事案ごとの判断が必要ですので、気づいた時点で証拠を保存し、弁護士に相談することをおすすめします。
Q. 選挙管理委員会に相談すれば投稿を削除してもらえますか。
A. 選挙管理委員会には投稿を直接削除させる権限はありません。選挙の公正性に関わる事案として情報を共有・記録しておく窓口という位置づけで捉え、投稿の削除自体はプラットフォームへの申出や弁護士への相談を通じて進める必要があります。
※本記事は一般的な対応の考え方を紹介したものです。個別の事案への対応は、弁護士等の専門家に必ずご確認ください。
政治家向けSNS戦略マニュアル
まとめ
候補者がSNS上の誹謗中傷やデマの標的になったとき、最初に必要なのは感情的な反応ではなく、証拠保存という地味だけれど重要な作業です。そのうえで、拡散状況や内容の深刻度に応じて、プラットフォームへの削除申出、弁護士や警察、選挙管理委員会への相談を組み合わせて対応していくことになります。2026年の法改正によって、SNS事業者の対応義務やなりすまし罪の適用が整理されつつありますが、具体的な運用の詳細は今後のガイドラインを待つ部分も多く、個別の判断は専門家への相談が欠かせません。
また、こうした対応は候補者一人で抱え込むものではなく、発見・判断・発信の役割を陣営内で分担しておくことで、初動のスピードと精度を高めることができます。候補者本人が選挙活動そのものに集中できるよう、あらかじめ対応フローを共有しておくことが、結果として陣営全体の安定にもつながります。
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